瀧澤 祥
Sachi TAKIZAWA
小さな頃から当たり前と思っていた「幸せな お嫁さん・お母さん」と空想の中で夢見ていた「世界を飛び回るグローバルキャリア」を両立。 望んでいたものを手に入れて 組織勤めを完走して引退した今「イベントプロデューサー&講演者」として活躍する瀧澤さん。そのちゃっかりしたたかなパラレルライフとは?
〈profile〉eMC2016年取得、東京都在住、外資系IT企業定年退職後、断捨離®︎トレーナー。スピリチュアルスポットへの旅と、トイプードルとの毎日を満喫中。
将来は「外交官」と
「お嫁さん&お母さん」
岡山市生まれ。のんびりとした環境のもと、学校教諭だったご両親と姉妹の4人家族で、穏やかで暖かい暮らしをしていた瀧澤さん。 「早生まれのせいか、親にも変わった子と言われるほど、空想でぼんやりする時間が多く、行動がスローで、見た目も地味でした。将来を考えていたのは、行ったこともない外国で働く『外交官』と『お嫁さん&お母さん』と、小学6年生の作文でそう書いていました」 と振り返りながら 「ハイ、これ自分史です」 と手渡してくれたストーリーは、なんとA4びっしり35ページの大作! 読み終えたらきっと思い浮かべるでしょう。家族から世間から刷り込まれてきた価値観を受け入れつつ、子どもの頃からすでにキャリアとプライベートのどちらも譲らない、先ゆく感覚と強い意思を持っていたのだろうな、と。
外資系企業で片方の夢をまず実現
大学時代にはアメリカの州立大学へ1年間交換留学。 「制限のある日本や保守的な岡山から、感じたことをストレートに表現し、何でもチャレンジしていい自由なカリフォルニアは、自分らしくいられて最高でした。 帰国後、日本IBMにシステムズエンジニアとして入社し、海外システムの開発を担当するも、得意でも好きでもない仕事。私はコーディネーターの仕事がやりたい!と異動を希望し続けたら、インターネットが世界を賑わせ始めた1988年に米国本社の仕組みをアジア各国に展開する仕事にアサインされました。 まだ20代後半、IT企業なのに、テクニカルな知識も貧困で、ビジネスを俯瞰する数字的思考も苦手という絶望的な人材。
厚かましさ以外に取り柄がない女子(笑)に、『細かいことは無理だけど [さばき]だけは鮮やかだから、とにかくやってみろ』と、各国の電信電話会社との交渉と技術チームのまとめ役を任せてくれた上司に感謝しかありません。海外の国々を[繋ぐ]という役目を実現できたことは、国を代表する外交官でこそないけれど、ある意味、子どもの頃の夢が叶ったのかもしれません」。
いいのか私?
それから10年間は世界を股にかけ、プロジェクトリーダーとして剛腕ぶりを発揮、バブルが弾けても余韻が残る時代、やりたい放題が許されていた大企業の社員っぽい派手目の生活を送ったといいます。その一方で30代半ばとなり…「当時流行りのシンデレラ・コンプレックス(白馬に乗った王子様が救いに来てくれる他力本願な依存)が心の中に芽生えてきました。 日々寝る以外はずっと仕事で、週末は移動。時差や不規則な食事からくる持病のメニエールなど、体調不良もひどくなって。『いいのか私?』って。 だんだん、刺激的な旅から 成田空港に着いて夕刻の冷たい風に吹かれる度に、そこはかとない虚しさを感じ、限界だと思いました。33歳の私は、そんな夢は諦めて一人で生きていく覚悟を決めて、王子様が迎えに来るまでの腰かけで住んでいた小さな古いアパートから、きちんとしたマンションへの引越しを決めました」。
幸せすぎてやばい
「そうやって、執着を手離すと変化するというのはよく聞く話で、速攻で結婚に繋がるご縁が舞い込んできました。 希望通りに女の子が生まれ、産休&育休のゆったりとした一年は、幸せすぎてやばかったです」。 夫や義母&実家両親、ご近所の絶大な支援がありがたく、綱渡りながらワーママ生活をこなし、一貫校幼稚園お受験に参戦。機内持ち込みキャリーを、私立幼稚園の制服の女の子の手に持ち替えて、夜明け前のお弁当作り、送り迎え、PTA役員業、ほとんどが専業主婦のママ友のお付き合いなど、娘の高校卒業まで14年間完走。 会社では時間と場所の融通がきく外人部隊へ異動して自主リモート(笑)、学校の図書室の端でこっそりテレコンしたりしながら、ちゃっかりパラレルライフでした。満たされ過ぎたら「新しい刺激」が欲しくなり、韓流スターの追っかけにハマり、動きのスケールが桁違いの瀧澤さんですから、メジャーな国際映画祭のプレスパス取得記者なんて煌びやかな肩書も手に入れました。
大殺界?突然の出来事からの
さらなる断捨離
しかし、家庭に重心を移すために経営&管理系の仕事に異動。お給料は上がるが、スキルミスマッチと慣れない日本人チームとの仕事のストレスから、こっそり心療内科のお世話になりました。 「40歳で適用障害と診断され、再度50歳で更年期が原因で鬱一歩手前の症状で、謎の服薬も経験しました。部下が客先で鬱になってしまった反省や、弱った自分のセルフケア目的でEMCAでEAP心理カウンセリングとキャリアコンサルティングを学びました。
認知行動療法などを自ら体験し、さまざまなスピ系のワークやリトリートに参加して自分に客観的俯瞰的に向き合った貴重な時間でした。 トドメとして52歳の時、元気だった夫が心筋梗塞で急逝。感情に浸る暇なく、会社勤めの傍ら怒涛の事務処理や、同居の義母の介護マネージメントに忙殺されました。
高校一年生の一人娘の子育ては、元祖育メンのパパに頼りきりだったので、1対1になると心配で過干渉気味となり、穏やかではなくなりました。 疲れ果てた頃ネットで出会った『断捨離®️トレーナー』に自宅訪問してもらいました。子ども部屋の壁の天井まで埋め尽くす膨大な絵本や知育おもちゃグッズは、私の一方的な価値観の押し付けの象徴でした。私の手で整理処分すると、娘に対しての支配欲や心配や不安が驚くほど消えていきました。欧州大学院での一人暮らしを通して互いを尊重できる距離感ができたと思います」。
瀧澤さんは、その断捨離®️のチカラに、学びと実践を経て「断捨離®️ トレーナー」に認定されました。郊外の二世帯仕様一軒家の全収納家具と詰め込まれていた中身を整理処分して、もったいないと言われようと未来の自分に必要ない桜の樹のある一軒家も手離して、都心の天空のタワーマンションに移り住み、軽やかに毎日を謳歌しています。
次なるパラレルライフ
「企業勤務の最後に10年担当したM&Aの仕事は単なるビジネスの買収合併だけではなく、異文化の社員同士の業務交流の心理的サポートも経験しました。」
そんな瀧澤さんは、「『私なんて…無理』というコンプレックスや未経験分野への挑戦のブロックをはずし続け、違う分野の方々とのコラボに挑戦し「断捨離®︎とスピリチュアルのコラボセミナー」を[思いつき]で企画運営して、2年に渡り延べ2200名に提供し、前後して[直感]で 法人を設立。
「定款にはライフイベント関連のコンサルティング&プランニングサービスを列挙しました。住空間、家族、データ、心、体や食のケアなどです。仕事や家庭での役割を通した学び、ビジネスの専門家に学んだノウハウ、自分の心を整えるために出会った有形無形の考え方の学びを必要な方へ価値提供できたらと思っています。温泉地のリトリート施設の構想(空想)も温めています」。
瀧澤さんは、現在EMCA全国支部会東京ブロックの支部長さんとしても活動中。カウンセリングを日常的な心身のケアの一つとして認知してもらうのが目標といいます。 さぁ、「(元)大企業ママのちゃっかりパラレルライフ」は、これからがますます本番です!
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